徳之山稲荷神社

5月16日は、徳之山稲荷神社の例祭でした。毎年、牛島神社の神主さんがお祓いをしてくださり、盛大な縁日が行われます。

さて、徳之山稲荷神社は、本所深川の開発事業を推進した徳山五兵衛重政の屋敷跡でお稲荷さんは屋敷神として祀られていたそうです。墨田区石原1丁目蔵前通りから一本北側道路に位置しています。ここには、大盗賊、日本左衛門を「日本左衛門首洗井戸跡の碑」もあります。

墨田区内で日頃の生活の中で何気なく触れているものが、大変歴史深いものであったりします。

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1660年万治3年(一説では2年)、初代本所築地奉行に任ぜられた徳山五兵衛重政は、本所深川の都市計画と埋め立て、掘割開削、架橋など整備を行い、これが現在の碁盤の目状の街づくりのもとになっています。 竪川はこの時開削された運河で、隅田川から旧中川まで全長一里八町、一の橋から五の橋も同時期に創架されました。これは、江戸城から近い順に道路と橋に番号をつけたものです。(t-yomiuri より抜粋) また、亀戸に天満宮を勧請、深川長慶寺を中興しました。

日本左衛門は、江戸時代中期の大盗賊。日本左衛門首洗い井戸の碑には、徳之山五兵衛・本所築地奉行が捕縛の命を受けたとされています。池波正太郎著作の「おとこの秘図」には火付け盗賊改方の長官とされていますが、職位は不明だそうです。当時、親殺しや主殺しの重罪にしか出されなかった手配書(盗賊としては日本初の手配書)を逃亡先の安芸国宮島で見た日本左衛門は逃げ切れないと観念、1747年1月7日京都で自首し、その後3月11日(14日とも)処刑されたそうです。碑によると向島で捕縛されたとなっており、諸説あるようです。後に義賊「日本駄右衛門」として歌舞伎や著書に取り上げられています。(Wikipediaより)

                                             

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